院長ブログ一覧

糖尿病の歴史25 膵臓研究のルネサンス

膵臓研究はギリシア・ローマ時代からその後停滞していましたが、17世紀に入って新たな発展が始まります。

まずドイツ人の解剖学者ウィルズング(1589-1643) が1642年に主膵管を発見します。彼はイタリアのパドヴァでプロゼクターを務めた人です。パドヴァ大学は公開解剖のための建物(解剖劇場)が最初に建てられた場所であり、解剖劇場ではプロゼクター(解剖準備師)が解剖準備をしていました。しかし公開解剖は3月に終了しており、主膵管発見のもとになった解剖は私的にサンフランシスコ病院で行われました。ウィルズングは自分の発見を出版せず、銅版に彫り、印刷物を有名な解剖学者に届けました。この彼の行動は主膵管の発見者をわかりにくくさせ、のちのトラブルになります。彼は主膵管を発見した翌年に殺されます。主膵管の発見は膵研究の歴史上重要なできごとで、この発見によって「膵臓は胃のクッションであり、血管の保護組織」というガレノスの見解が間違っていることが明らかになりました。

ウィルズングが主膵管を発見した時、トーマス バルトリン(デンマーク:1616-1680)は学生としてその場に立ち会いました。バルトリンは父親も息子も兄弟も有名な解剖学者で、リンパ管の発見で有名です。 バルトリンが1651年に出版した解剖書はオランダ語訳され、日本にもたらされて解体新書の参考書になっています。当時、膵管は「乳糜を流す管」という捉え方が広まっていましたが、バルトリンはこれを否定します。


膵管の十二指腸開口部には弁があり、十二指腸側からプローブを差し込むことができない。。。何かが膵臓から腸に分泌されているのは確かだ。乳糜が十二指腸から脾臓に向かうのでなく、膵液が発酵のために胃に向かうのでもない。それは解剖学的関連がなく、乳糜が膵で洗浄されもしないからだ。


顎下腺管の報告者であるトーマス ワートン(1614-1673)も膵臓の詳しい解剖を行いました。1656年に発刊された論文をみますと、精緻な膵臓の図が描かれています。余談になりますが、1665年にロンドンでペストが流行しました。暑い6月から流行が拡大し、難を逃れるため、国王を始め20万人もの人がロンドンを脱出しています。このとき多くの内科医もロンドンを離れますが、ワートンはロンドンに留まった数少ない一人です。

もう一つ余談ですが、世界最古のペストは膵臓(パンクレアス)の名付け親であるエフェソスのルーフスが書き残しています(リトル)。ルーフスはペストを経験した3人の著書を紹介しています。最も古いのがディオニシウス(紀元前3世紀)で、リビア、エジプト、シリアの孤発例(腺ペスト)です。後の2人(ポセイドニウス、ディオスコリデス)は紀元前1世紀の人で、リビアにおけるペスト流行です。分子遺伝学的にペスト菌は2500年前に出現したと想定され、時期的に一致します。

シルビウス(オランダ:1614〜72)は17世紀に台頭した医化学派の創始者です。彼は人体を「酸とアルカリの微妙な平衡状態にある化学系」と想定し、このバランスがくずれたときに体調変化が起こると考えました。シルビウス説では、胃酸、膵液(酸)、胆汁(アルカリ)のバランスが大切です。


膵液は胆汁と混ざった時に活性化する。酸性の膵液はアルカリの胆汁と混じり合って、腸内で石鹸の泡のようになり、消化できるものとできないものを分ける。


これを実証しようとしたのが、弟子のライネル デ グラーフ(オランダ:1641-1673)です。彼は女性生殖器の研究で有名(グラーフ卵胞は彼にちなんでいます)ですが、彼の博士論文(1664)は膵臓の研究です。彼は生きたイヌに膵管瘻孔をつくり、膵液の性質を調べました。そして間違いましたが、「膵液はシルビウスの予想通り酸性」と結論付けました(舌で評価!)。唾液腺管が発見されてまもなくの時代(顎下腺管1656、耳下腺1662)であり、グラーフは「膵液は唾液と同様に膵臓の腺から流れ出る」と書きました。

グラーフは師の唱える「泡」の再現実験に失敗します。しかし師を信じるグラーフは生体内熱が「泡」を引き起こすと考えました。誤りはいくつかありますが、ここでは「膵臓は消化機能に大切」という見方が大切です。グラーフは腺ペストで亡くなりました。


平成27年9月4日

糖尿病の歴史24 膵臓研究事始め (2)

はっきりと膵臓をリンパ節と区別して記述したのはヘロフィロス(335〜280BC)です。ヘロフィロスはカルケドン(トルコ)に生まれ、アレクサンドリア(エジプト)に移住し、エラシストラトスと共にアレクサンドリア医学校を創設します。彼はその地で系統的な科学的解剖を行います。それもエジプト王の許可を得て、600人ほどの囚人を生きたまま解剖したといわれています。当時のエジプトはプトレマイオス朝:アレキサンダー大王の死後に部下のプトレマイオス(マケドニア人)が創始したギリシア系王朝で、許可を与えた王はプトレマイオス1世 ソーテール、および彼の息子プトレマイオス2世ピラデルポスです。


食物は胃から腸に運ばれ、そこに肝から胆汁が到着して加わる。別の腺(注: 膵臓)からも唾液腺と同じく粘性のある液体が到着して加わり、消化に役立っている。(ヘロフィロス、エウダモス)


この記載は正しく、のちのガレノス(129-210AD)が間違います。ヘロフィロスの解剖は画期的なものでした。中世は解剖があまり行われず、次に学問的解剖が行われるのは1600年後です(ヴェサリウス1514-1564)。ヘロフィロスは「運動と健康な食事が個人の健康に不可欠である」との信念を持っていました。「健康でないなら、智慧は現われず、美も顕れない。力が発揮できず、富は役立たずとなり、理性も力がなくなる」と述べています。

膵臓(パンクレアス)の名付け親は、エフェサスのルーフス(紀元100年頃、ギリシア)とされます。彼はヘロフィロスからさらに400年後、「全て+肉」の意味を込めてpan+kreas パンクレアスと名付けました。実はパンクレアスという言葉自体は彼以前からあり、ルーフスの評価は「膵臓をリンパ節と区別」してパンクレアスと呼んだことにあります。

ガレノスは膵臓をカリクレアス(kalikreas)と呼びました。美しい肉という意味です。彼は「膵臓はその後ろにある大血管を保護するクッションの役目をしている」と考えました。この誤った考えは17世紀まで受け継がれます。


平成27年8月20日

糖尿病の歴史23 膵臓研究事始め (1)

「糖尿病の歴史」もいよいよ膵臓の話に入ります。

膵臓は、(1) 消化酵素を含む膵液を十二指腸に分泌して消化を助け、(2) インスリンを血中に分泌して血糖を下げる働きをしています。膵臓は胃の後ろにあって分かりにくい臓器です。中国医学では全く知られておらず、膵という漢字も我が国で江戸時代に作られました。しかし西洋医学では働きはともかく、存在そのものは古くから知られていたようです(ハワード、ヘス)。

ヒポクラテス(紀元前460年頃)は膵臓を見ていた可能性があります。彼の時代はリンパ節と呼ばれていました。ヒポクラテスによると、腺に2種類あり、それは皮下組織にあるもの(毛を伴なう腺)と、それ以外の場所にあるもの(毛を伴なわない腺)であり、後者に膵臓らしき記述があります。


耳の周囲や頚静脈の上に腺がある。近辺に毛がある。腋窩にも毛をもつ腺があり、鼠径部、恥部にも腺がある。腸など身体の他の部分にある腺、また大網に非常に大きな腺があって他の部位の腺よりはるかに大きいが、これらの腺は毛を持たない。


大網は胃などの臓器を取り囲むように存在する腹膜の一部を指す解剖用語です。残念ながら「大網の腺」が膵臓であるかリンパ節であるか、この記載からは定かでありません。


平成27年8月10日

糖尿病の歴史22 中国の糖尿病の歴史(3)

外台秘要(752年)は唐の時代に王燾(おうとう)が編集した処方集です。外台秘要に糖尿病では尿が甘いこと、治療後の判定に尿の状態を用いることが記されています。西洋医学で初めて尿を舐めたウィリスの900年前の記述です。


《外台秘要》卷第十一

近效祠部李郎中消渴方一首
消渴者。原其发动。此则肾虚所致。每发即小便至甜。医者多不知其疾。(消渇は、もと、その発動は此れすなわち腎虚の致すところなり。発する毎に即ち小便甜きに至る。医者多くはその疾を知らず。)

消中消渴肾消方八首
、、、得小便咸苦如常(小便減もしくは常の如きを得る ):服薬後の治療効果判定が書かれています。


消渴不宜针灸方一十首
千金论曰∶凡消渴病经百日以上者。不得灸刺。灸刺则于疮上漏脓水不歇。遂成痈疽。(千金論曰く:凡そ消渇の病、百日以上経る者は灸刺を得ず。灸刺すれば即ち于瘡上漏し、膿水歇ず。遂に癰疽と成る)


糖尿病患者に鍼灸治療をしてはならないことまで書かれています。 糖尿病になると感染症に弱くなります。そこに不衛生な処置をすれば容易に皮膚感染症をおこします。于瘡は「おでき」のことで、于瘡の集まったものが「よう(癰)」です。「100日以上糖尿病を患う人に鍼灸治療すればおできができ、上に破れて排膿し、膿の止むことがなく、遂に「よう」〜皮下膿瘍になる」リスクが書かれています。


平成27年7月28日