我が国の糖尿病食事療法の歴史(2)
炭水化物制限緩和・混乱時期(1920〜1950年代)についてです。
”混乱時期” とタイトルをつけると当時の先生方に失礼ですが、炭水化物量の指示量が施設により異なり全国的に定まった基準がなかったという意味で名づけさせて頂きました。この時代は、糖尿病治療にインスリンが利用できるようになった時代とほぼ合致します。
糖尿病学会では「坂口賞」というものがありますが、その坂口先生の教室で、「非糖尿病者で糖質を厳重に制限すると、糖質代謝機能が著しく低下する」、「これに糖質を追加摂取させると、この代謝障害が回復する」ことが影浦先生によって発見されました。1920年(インスリン発見の前年)のことです。
坂口門下ではその後も研究が続き、「軽症糖尿病でも蛋白脂肪食または野菜鶏卵食では糖質代謝を障害する」、「この不利作用を中和する糖質の量は、「蛋白脂肪食」では毎食100ー150gの米飯、「野菜鶏卵食」では50-100gの米飯である」と報告されました。「野菜鶏卵食」は、炭水化物厳重制限食でも少し少し緩めの制限食です。毎食に米飯をつけるという考えは、後の食品交換表の基礎食の考えの基になりました。
欧米では1902年に燕麦を与えると耐糖能が向上すると提唱した人(von Noorden)がいます。彼は、厳重食の中に”燕麦の日”を設けました。しかし、この耐糖能向上作用は燕麦のもつ特殊作用と理解されていました。炭水化物摂取量の研究が進むのはずっと後になってからです。1926年にPorgesらは「豊富な脂肪が肝グリコーゲンを減少させ、糖質同化作用を直接減少させる、炭水化物の制限が膵島(インスリンを作る組織)を鈍くさせる」と考えました。英米学派のSansumも炭水化物豊富食を提唱し、Nixonは「脂肪を制限すると耐糖能が向上し、膵島機能の再生に好影響を与える」としました。このような研究を通じて、世界的にも炭水化物の制限が緩和されてきました。
我が国の歴史に戻ります。
炭水化物の摂取量は緩和されましたが、施設により緩和量が大きく異なっていました。
坂口先生は、先ほどの研究から毎食100-150gの米飯としました。坂口先生の数年先輩でライバルの山川先生は、炭水化物をもっと多く設定しました。当時は炭水化物に重きが置かれ、総カロリー量はあまり重要視されていなかったようです。山川式食餌療法の総カロリーは、1820-2200kcalになります。当時の日本人は身長150cm、体重50kg(平均)ですので、指示カロリー量は多めです。一方、関西では炭水化物の量は少なめに指導されていました。そのため「東北ではドンブリ飯、大阪では湯飲み茶碗」と言われたそうです。
炭水化物の指示量を具体的に決める方法として、
の方法がありました。ビランツは「尿糖が出ても身体にとどまる炭水化物が多ければ良いじゃないか」という考えです。影浦先生はビランツを重視し、小澤先生は「尿糖を多くしてまで食べる必要はない」という立場でした。
なお、炭水化物の量が少ないときはケトーシス(ケトン体過剰状態)に注意する必要があります。小澤先生の食餌療法では「ケトン体の材料にならない成分」と「材料になる成分」の比が2未満にならないように注意していました。
平成24年5月22日
”混乱時期” とタイトルをつけると当時の先生方に失礼ですが、炭水化物量の指示量が施設により異なり全国的に定まった基準がなかったという意味で名づけさせて頂きました。この時代は、糖尿病治療にインスリンが利用できるようになった時代とほぼ合致します。
糖尿病学会では「坂口賞」というものがありますが、その坂口先生の教室で、「非糖尿病者で糖質を厳重に制限すると、糖質代謝機能が著しく低下する」、「これに糖質を追加摂取させると、この代謝障害が回復する」ことが影浦先生によって発見されました。1920年(インスリン発見の前年)のことです。
坂口門下ではその後も研究が続き、「軽症糖尿病でも蛋白脂肪食または野菜鶏卵食では糖質代謝を障害する」、「この不利作用を中和する糖質の量は、「蛋白脂肪食」では毎食100ー150gの米飯、「野菜鶏卵食」では50-100gの米飯である」と報告されました。「野菜鶏卵食」は、炭水化物厳重制限食でも少し少し緩めの制限食です。毎食に米飯をつけるという考えは、後の食品交換表の基礎食の考えの基になりました。
欧米では1902年に燕麦を与えると耐糖能が向上すると提唱した人(von Noorden)がいます。彼は、厳重食の中に”燕麦の日”を設けました。しかし、この耐糖能向上作用は燕麦のもつ特殊作用と理解されていました。炭水化物摂取量の研究が進むのはずっと後になってからです。1926年にPorgesらは「豊富な脂肪が肝グリコーゲンを減少させ、糖質同化作用を直接減少させる、炭水化物の制限が膵島(インスリンを作る組織)を鈍くさせる」と考えました。英米学派のSansumも炭水化物豊富食を提唱し、Nixonは「脂肪を制限すると耐糖能が向上し、膵島機能の再生に好影響を与える」としました。このような研究を通じて、世界的にも炭水化物の制限が緩和されてきました。
我が国の歴史に戻ります。
炭水化物の摂取量は緩和されましたが、施設により緩和量が大きく異なっていました。
東京大学 坂口式食餌療法:毎食100-150gの米飯
東北大 山川式食餌療法:標準食(炭水化物300-350g、蛋白質80-100g、脂肪30-40g)
京都府立医大 飯塚式食餌療法:炭水化物100-150g/日
大阪大学 小澤式食餌療法:炭水化物50-100g/日
坂口先生は、先ほどの研究から毎食100-150gの米飯としました。坂口先生の数年先輩でライバルの山川先生は、炭水化物をもっと多く設定しました。当時は炭水化物に重きが置かれ、総カロリー量はあまり重要視されていなかったようです。山川式食餌療法の総カロリーは、1820-2200kcalになります。当時の日本人は身長150cm、体重50kg(平均)ですので、指示カロリー量は多めです。一方、関西では炭水化物の量は少なめに指導されていました。そのため「東北ではドンブリ飯、大阪では湯飲み茶碗」と言われたそうです。
炭水化物の指示量を具体的に決める方法として、
(1) 尿糖が出るまで炭水化物を増やしていく(トレランツ)、
(2) 食餌で摂取した炭水化物と尿糖の差(収支差)を重視する(ビランツ)
の方法がありました。ビランツは「尿糖が出ても身体にとどまる炭水化物が多ければ良いじゃないか」という考えです。影浦先生はビランツを重視し、小澤先生は「尿糖を多くしてまで食べる必要はない」という立場でした。
なお、炭水化物の量が少ないときはケトーシス(ケトン体過剰状態)に注意する必要があります。小澤先生の食餌療法では「ケトン体の材料にならない成分」と「材料になる成分」の比が2未満にならないように注意していました。
平成24年5月22日
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